【論文解説】統計物理学×AIで挑む自動取引 ― MZ形式とSACの活用

論文:Non-Markovian Dynamics for Automated Trading
(自動取引における非マルコフ的ダイナミクス)
を分かりやすく解説・要約しました。

出典元:SSRN(2024/11/26掲載)

DMM FX

【論文解説】革新的データ拡張技術で自動取引を最適化 ― モリ=ズワンジグ形式と強化学習の融合

「非マルコフ(Non-Markovian)」とは?

  • マルコフ過程(Markov process)
     → 「現在の状態がわかれば、未来は過去に依存しない」モデルのこと。
     例:サイコロの出目や株価のランダムウォークなど。「次に何が出るか」は今の状態だけで決まる。

  • 非マルコフ(Non-Markovian)
     → 「未来は現在だけでなく、過去の履歴にも依存する」モデル。
     つまり、過去の出来事やトレンドの記憶が未来に影響を与える。


金融市場に当てはめると?

  • マルコフ的 → 「株価は常に新しい情報だけで動く。過去の情報は不要」

  • 非マルコフ的 → 「過去の値動きやトレンドが、市場の将来に影響を残す」

実際の金融市場は「完全にマルコフ的」ではなく、投資家の記憶・行動・ポジションの積み上がりによって 過去の影響(履歴依存性)が続く ため、「非マルコフ」として扱った方が現実に近い、とされます。


 今回の論文は、Mori–Zwanzig形式を使ってこの「非マルコフ的な性質(履歴依存)」をモデルに取り込むことで、強化学習の自動取引戦略をより賢くしようとしているわけです。

1. はじめに ― データ不足という壁

近年、金融市場では 自動取引(アルゴリズム取引) の役割が急速に拡大しています。
特に、AI技術の進歩と計算能力の向上に伴い、強化学習(Reinforcement Learning, RL) を用いた取引戦略が大きな注目を集めています。R
Lは試行錯誤を通じて「より良い意思決定ルール」を学習できるため、従来のルールベースや統計的手法を超える可能性を秘めているからです。

しかし、ここには大きなボトルネックがあります。

それは 「高頻度市場データの不足」 です。

金融市場の動きを精度高く学習させるには、大量かつ長期にわたる時系列データが必要になります。
ところが、実際の市場データには以下のような制約があります。

  • 入手コストが高い:高頻度取引データや詳細な板情報は有料であり、研究者や小規模運用者にとっては簡単にアクセスできません。

  • データが一度きり:市場は常に変動しており、同じ状況が繰り返されることはありません。そのため、実際の観測データだけに頼ると汎化能力に乏しいモデルが育ってしまいます。

  • 市場構造の変化:金融規制やテクノロジーの進展によって市場のダイナミクスは常に変化しており、過去のデータがそのまま未来に適用できるとは限りません。

こうした状況は、強化学習モデルにとって深刻な問題です。
なぜなら、RLは試行錯誤の過程で膨大な「経験(データ)」を必要とするため、十分なサンプルを得られなければ性能が頭打ちになってしまうからです。

この研究が注目されるのは、まさにこの データ不足という根本課題を突破するアプローチ を提示している点にあります。
具体的には、統計物理学の「モリ=ズワンジグ形式(Mori–Zwanzig formalism, MZ形式)」 を応用し、実データに依存しすぎずに「合成データ」を生成して学習を補うという革新的な方法を提案しているのです。

言い換えれば、これは 「実際には存在しないが、市場の性質を反映した仮想データを作り出し、AIに学習させる」 という試みであり、金融AIのトレーニング環境を飛躍的に拡張する可能性を秘めています。


2. 関連研究 ― 機械学習と金融データの限界

金融取引の最適化に向けた研究は、ここ10年ほどで急速に進展してきました。
特に 機械学習(Machine Learning, ML) の応用は、従来の数理モデルや統計的アプローチを補完・刷新する存在として注目されています。

2-1. 従来の機械学習の貢献

株価予測やポートフォリオ最適化において、これまで広く用いられてきたのは 教師あり学習時系列モデル です。

  • 教師あり学習:過去のデータ(株価やファンダメンタル情報)をもとに将来の値動きを予測

  • 時系列分析(ARIMA、GARCHなど):市場データの統計的特徴を捉え、ボラティリティやトレンドを推定

これらの手法はある程度の成功を収めてきましたが、「市場のダイナミクスを正確に再現する」には限界がありました。
理由は、金融市場が本質的に 非線形・非定常 な性質を持つためです。

2-2. 強化学習の登場

こうした背景から近年注目されているのが、強化学習(RL) です。RLは「試行錯誤の経験」から最適な戦略を学習するため、事前に明確なルールを設定しなくても複雑な意思決定が可能になります。
特に 深層強化学習(Deep RL) は、ディープニューラルネットワークの表現力を組み合わせることで、大規模で複雑な金融データにも適応できる可能性を示しました。

代表的な応用例としては、

  • ポートフォリオ管理(どの資産にどれだけ配分するかを自動最適化)

  • 注文執行戦略(大口注文を市場インパクトを抑えて執行)

  • ヘッジ戦略(リスクを動的に調整するポリシーの最適化)

などがあります。

2-3. 従来研究の課題 ― データ不足と過学習

しかし、ここでも大きな制約が残ります。
強化学習モデルは膨大な試行錯誤を必要とするため、学習データが限られている金融分野では過学習に陥りやすい という課題があります。

  • 実際の金融市場データは「一度きり」であり、同じ状況を繰り返し観測できない。

  • 高頻度データや板情報はコストが高く、十分なサンプルを得られない。

  • シミュレーション環境で生成された人工データは、現実の市場の複雑さを捉えきれない。

結果として、モデルは「訓練したデータでは強いが、未知の状況に弱い」という 汎化性能の欠如 に直面します。これは金融AIの実運用における最大のボトルネックの一つです。

2-4. データ拡張という発想

こうした制約を克服するアプローチとして、データ拡張(Data Augmentation) が注目されています。これは画像認識や自然言語処理でもよく使われる手法で、「学習に使うデータを人工的に増やし、モデルのロバスト性を高める」ものです。

ただし、金融市場の場合は「どのようにリアルさを保ちながらデータを拡張するか」が大きな課題です。
価格変動や市場ダイナミクスは極めて複雑で、単純にノイズを加えるだけでは「実際の市場らしさ」を再現できません。


 この文脈で本研究が提案するのが、統計力学の「モリ=ズワンジグ形式(MZ形式)」を応用したデータ拡張 です。
これは従来の金融研究にはほとんど見られなかったアプローチであり、「統計物理 × 金融AI」という異分野融合の新しい流れを切り拓こうとしています。


3. 提案モデル ― モリ=ズワンジグ形式を用いたデータ拡張

本研究の中核は、統計力学のモリ=ズワンジグ形式(Mori–Zwanzig formalism, MZ形式) を活用し、金融市場データの不足を補う「合成データ拡張」を行うことです。

3-1. モリ=ズワンジグ形式とは何か?

MZ形式は、もともと物理学における非マルコフ過程(履歴依存のダイナミクス) を記述するために用いられる数学的手法です。
シンプルに言えば、

  • 複雑なシステムを「重要な変数」と「周辺的なノイズ」に分解する

  • 周辺的な効果を「メモリ項(過去依存性)」として表現

  • それによって、観測可能な変数の進化をより現実的に記述

金融市場に当てはめると、「価格変動は直近の値動きだけでなく、過去の履歴や隠れた要因にも依存している」という事実を反映できます。
従来の単純なマルコフ近似(次の状態は現在のみに依存)は現実の市場には不十分であり、MZ形式を導入することで「より市場らしいデータ」を合成できるわけです。

3-2. データ拡張の仕組み

本研究では、MZ形式を用いて市場データを合成し、RLエージェントの訓練用データセットを拡張 します。

  • ステップ①:観測データを基に射影
    市場データ(株価リターンなど)をヒルベルト空間に射影し、主要なダイナミクスと残差を分離。

  • ステップ②:非マルコフ効果の導入
    残差の部分を「メモリ項」として扱い、過去データの影響を反映した合成データを生成。

  • ステップ③:RL学習に組み込み
    拡張されたデータを用いて強化学習エージェントを訓練し、従来の限られた市場データに依存せず、より汎化性の高い戦略を構築。


3-3. SAC(Soft Actor-Critic)との組み合わせ

本研究で採用された SAC(Soft Actor-Critic) は、近年の強化学習アルゴリズムの中でも特に連続的なアクション空間に強みを持つ手法です。
株式取引のように「買う・売る」だけでなく、「どのくらいの数量を発注するか」という連続的な意思決定が必要な領域に適しています。

SACは以下の特徴を持つアルゴリズムです。

  • 確率的ポリシー
    従来のDDPG(Deep Deterministic Policy Gradient)は「決定論的ポリシー」を採用しており、ある状態に対して常に同じ行動を選択します。
    これに対してSACは「確率的ポリシー」を導入し、同じ状態でも異なる行動を選択する余地を残します。これにより、探索性が飛躍的に向上します。

  • エントロピー最大化
    SACの最大の革新は、「報酬を最大化する」だけでなく「行動の多様性(エントロピー)」も同時に最大化する点にあります。
    これにより、過度に最適化された単一の戦略に依存せず、より柔軟で堅牢な戦略を学習できます。

  • DDPG/TD3の改良版
    SACは、DDPGやTD3(Twin Delayed DDPG)が抱えていた「探索不足」や「学習の不安定性」といった課題を克服しています。
    具体的には、複数のQネットワークを用いた安定化や、更新遅延戦略などが組み込まれています。

→こうした特徴により、SACは金融市場のような不確実性が高く、状態が連続的に変化する環境で特に適したアルゴリズムとなります。

SACとMZ形式を組み合わせることで、

  • データ不足による過学習を軽減

  • 現実市場の複雑な非線形性を反映

  • より柔軟で適応的な取引ポリシーを獲得

というシナジーが期待されます。


3-4. モデルの位置づけ

従来のRLモデルが「限られた過去データに依存して学習」していたのに対し、今回のアプローチは統計物理のフレームワークを活用し、市場らしい追加データを生成する点で革新的です。

つまり、

  • データ不足による過学習を軽減
  • 現実市場の複雑な非線形性を反映
  • より柔軟で適応的な取引ポリシーを獲得
として機能します。
 この提案モデルは、「データ不足を理論ベースで補う」という意味で非常に実務的な価値を持ち、金融AI研究の新しい方向性を示しているといえます。

4. 実証結果 ― 拡張データによる効果検証

研究では、Google、Adobeなどの主要株式を対象に実証実験を行い、MZ形式を利用したデータ拡張の有効性を確認しました。

4-1. 株式資産の予測精度

  • MZ形式の導入効果
    データ拡張によって、市場の非線形なダイナミクス(ボラティリティの急上昇、価格のメモリ効果)をより的確に再現できました。
    結果として、GoogleやAdobeといった大規模テック銘柄では、より正確な価格予測が可能になりました。

  • 課題も残る
    一方で、一部の銘柄ではモデルの適合度が低下するケースも見られました。
    これは「MZ形式のパラメータ設定」や「資産固有の流動性特性」に起因すると考えられ、さらなる調整やモデル拡張の余地が残されています。


4-2. ポートフォリオ最適化

実験は「トレーニング段階」と「テスト段階」で結果が異なる点が興味深いポイントです。

  • トレーニング段階
    データ拡張を行わないエージェントの方が、一時的に優位なパフォーマンスを示しました。
    これは拡張なしの方が、訓練データに過度に適合し、短期的には利益を稼ぎやすくなったためと解釈できます。

  • テスト段階(実運用シナリオ)
    拡張データを利用したエージェントの方が、一貫して高い利益を実現しました。
    つまり、拡張なしモデルは「訓練データに対する過剰適合(オーバーフィット)」が起きていたのに対し、拡張データを使うことで汎化能力(新しいデータに適応する力)が向上したといえます。


6. 議論と意義

本研究で採用された モリ=ズワンジグ(MZ)形式 は、金融市場に特有の「非マルコフ性(過去依存性)」を補足する強力なデータ拡張手法であることが確認されました。株価は単なるランダムウォークではなく、過去の値動きや投資家行動の記憶が将来の動きに影響する特徴を持ちます。MZ形式を活用することで、この「メモリー効果」を人工的に再現でき、従来のシミュレーションや履歴データでは捉えきれなかった相場の揺らぎを再現することが可能となりました。

また、合成データの導入によって 取引エージェントの過学習(オーバーフィット)を防ぎ、実運用での安定性を高められる ことも重要な発見です。強化学習モデルは、しばしば訓練データには強いが未知の市場データには弱いという課題を抱えていました。MZ形式によるデータ拡張は、この「学習と実運用のギャップ」を縮める手段になり得ます。

もっとも、本研究は全ての資産で一様に成功したわけではなく、銘柄ごとに成果の差が見られた 点も指摘されています。資産固有の流動性やボラティリティ特性によっては、生成データが実際の市場ダイナミクスを十分に反映できない場合があり、さらなる精緻な設計が求められることも浮き彫りになりました。


7. 投資家・研究者への示唆

  • 投資家への示唆
    市場データが限られる中で、AI運用における新しい選択肢を提示した点は実務的に大きな意義があります。従来は「データが少ないからAIは使えない」と考えられていた状況でも、合成データを導入することでAIモデルをより強化し、実運用可能なレベルに引き上げられる可能性が示されました。

  • 研究者への示唆
    統計物理学の概念を金融市場に応用するという点で、本研究は新しい学際的フレームワークを提示しています。金融工学にとどまらず、物理学・数理科学の知見を組み込むことで、これまでの金融モデリングを超える新しい研究分野を切り開く可能性があります。

  • 実務運用への示唆
    特にアルゴリズム取引やAIファンド運用の現場においては、過学習リスクを軽減し、汎化能力を高めたアルゴリズムを構築することが課題です。本研究はその具体的な解決策を提示しており、「バックテストは強いが実運用で負けるAI」からの脱却 に向けたヒントを与えています。

この実証実験は「データ拡張なしでは短期的には強いが、実運用では弱い」という従来のRLモデルの弱点を浮き彫りにし、MZ形式を用いた拡張が持続的かつ安定した利益をもたらす道を拓くことを明確にしました。

用語解説

モリ=ズワンジグ形式(Mori–Zwanzig formalism)
統計物理学で使われる手法で、複雑なダイナミクスを「重要な部分」と「無視できる部分」に分け、後者を「記憶項」として扱う方法。金融市場のように「過去の影響が現在に残る」現象をモデリングするのに適しています。

SAC(Soft Actor-Critic)
強化学習の一手法。行動選択の際に「エントロピー(選択の多様性)」を最大化することで、探索と安定性を両立させます。株式取引のように連続的で不確実な状況下に強みがあります。

オーバーフィット(Overfitting)
AIモデルが訓練データに過剰に適応しすぎて、新しいデータに弱くなる現象。金融AIでは「バックテストでは勝てるのに実運用では負ける」典型的な原因です。

汎化能力(Generalization ability)
AIが「未知のデータ」に対しても適切に予測や判断ができる力。金融分野では「過去データに基づいて未来の市場で通用するか」を測る重要な指標です。

8. まとめ

この研究は、金融取引における最大の課題の一つである 「データ不足」問題 に対し、統計物理学とAIを融合した革新的なアプローチを提示しました。

  • モリ=ズワンジグ形式 による合成データ拡張で、市場の非線形・非マルコフ的なダイナミクスを再現

  • SACアルゴリズム による確率的ポリシー学習で、より柔軟で堅牢なトレーディング戦略を実現

  • 実証実験により、オーバーフィットの回避と汎化能力の改善を確認

 まさに「統計物理学 × AI × 金融工学」の交差点にある研究であり、今後の自動取引・資産運用の在り方に大きな影響を与える可能性を秘めています。
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