【論文解説】韓国排出量取引制度(K-ETS)が企業価値に与える影響

論文:The Firm-Value Effect of Ets: Evidence from the Korean Market
を分かりやすく解説・要約しました。

出典元:SSRN(2024/12/15掲載)

目次

韓国市場における排出取引制度(K-ETS)の企業価値効果—「環境規制は企業の成長を妨げるのか、促進するのか?」—

1. はじめに ― 環境規制は企業の敵か、それとも成長の味方か

背景:グローバルな排出取引制度(ETS)の流れ

排出量取引制度(Emission Trading Scheme, ETS)は、
「市場メカニズムを用いて環境目標を達成する」代表的な政策手段です。

政府は企業に排出上限(Cap)を設定し、排出枠(Allowance)を配分。
企業は実際の排出量が上限を超えた場合、他企業から排出権を購入
することで義務を果たします。
反対に、削減余力を持つ企業は排出権を販売して利益を得られる仕組みです。

こうした市場原理の導入は、「環境」と「経済成長」を両立させるための最も現実的な政策とされています。
この構造は、EUのEU ETS(European Union Emissions Trading System)をはじめ、世界各国に拡大しました。

 K-ETSの導入 ― アジア初の国家レベル炭素市場

韓国は2015年、アジアで初めて国家規模の排出取引市場(K-ETS)を導入しました。
制度は環境部(Ministry of Environment)が主管し、当初から500社以上の主要企業(発電、鉄鋼、石油化学、航空など)が対象となりました。

K-ETSの特徴は以下の通りです。

項目 内容
制度開始年 2015年(第1フェーズ)
対象企業 約600社(国の総排出量の約70%をカバー)
割当方式 無償配分+オークション(段階的に有償化)
フェーズ構成 第1期(2015–17)→第2期(2018–20)→第3期(2021–25)
管理主体 韓国環境部・韓国取引所(Korea Exchange)
炭素価格 平均20,000〜30,000ウォン/tCO₂(約2,000〜3,000円)

韓国はOECD加盟国として、CO₂排出量削減目標を国際的に約束しており、K-ETSはその中核的な政策とされています。


 研究の出発点 ― 「環境規制=コスト負担」説への疑問

韓国経済は製造業中心であり、鉄鋼・化学・発電など高排出産業がGDPの大半を占める構造です。
そのため、制度導入当初には次のような懸念が広がっていました。

「排出権の購入負担で企業収益が圧迫され、株主価値が下がるのではないか?」

一方で、政策当局や一部の研究者は、ポーター仮説の立場からこう主張します。

「環境規制はイノベーションを促進し、効率化によって競争力を高める可能性がある。」

この「コスト負担説 vs 成長促進説」の対立を、著者は実証データで検証することを目的としました。


 研究目的 ― K-ETSが企業価値に与えた実際の影響を測る

論文の中心的な問いは、次の一点に集約されます。

K-ETSへの参加が、企業価値(Firm Value)を高めたのか、それとも下げたのか?

ここでいう「企業価値」とは、主に株式市場での評価(Tobin’s Q、株価収益率など)を指します。
著者は、制度導入の前後で企業価値がどう変化したかを分析し、「参加企業」と「非参加企業」の差を比較することで、K-ETSの純粋な影響を抽出します。


分析方法の概要:差分の差分法(Difference-in-Differences)

研究では、政策導入前後の変化を観察する差分の差分法(DiD)が用いられています。
この手法は、以下のような2段階比較を行うことで、政策効果を特定します。

  1. 時系列の差(Before → After)
     K-ETS導入前後で、企業価値がどれほど変化したかを計測。

  2. 群間の差(Treatment vs Control)
     K-ETS参加企業(処置群)と非参加企業(対照群)で、その変化の差を比較。

こうすることで、単なる市場全体のトレンド(例:株価上昇局面)を除外し、
K-ETSによる因果的な影響のみを抽出できます。


 本章の結論:論争に「実証で答える」

導入部の最後で、著者は次のように述べています。

This study provides empirical evidence on how Korea’s ETS affects firm valuation,
offering a test for the Porter Hypothesis in the Asian context.
(本研究は、K-ETSが企業価値に与える影響を実証的に検証し、アジアにおけるポーター仮説のテストを行う。)

つまりこの研究は、単なる「環境政策の分析」ではなく、経済成長と環境規制の両立が可能かを問う政策的挑戦でもあります。

 第1章まとめ

観点 内容
研究目的 K-ETSが企業価値に与える影響を実証的に検証する
研究手法 差分の差分法(DiD)+プロペンシティスコアマッチング
焦点 規制の経済的影響/ポーター仮説の実証
意義 「環境=コスト」論争にデータで答える初の韓国事例研究

2. 文献レビューと仮説の設定 ― K-ETSは企業価値を押し上げるのか?

背景:環境規制と企業価値の関係は「二面性」を持つ

環境規制(Environmental Regulation)は、
理論的にも実証的にも 「企業価値に正の影響を与える」説と「負の影響を与える」説 が存在します。
この章では、その二つの立場と代表的な研究を整理し、K-ETSの検証仮説を導きます。


2.1 コスト負担仮説(Cost Burden Hypothesis)

まず伝統的な立場は、「環境規制は企業のコストを増やす」という見方です。

 概要

排出量取引制度に参加する企業は、排出枠を確保するために
排出権購入コスト、モニタリングコスト、設備投資コストを負担します。

特に短期的には、

  • 炭素コストの上昇(=限界費用の増加)

  • 投資資金の圧迫(=キャッシュフローの制約)

  • 国際競争力の低下(=製造業中心国では死活問題)

といった懸念が指摘されてきました。

 代表的研究

  • Jaffe & Palmer (1997):環境規制はイノベーションを促すが、短期的には利益を圧迫。

  • Bushnell et al. (2013):排出権コストはエネルギー多消費産業の株価を下押し。

  • Martin et al. (2016):EU ETSでは、初期段階で一部企業の市場評価が低下。

つまりこの立場では、規制は経済的負担として株価にマイナスの影響を及ぼすと考えられています。

2.2 ポーター仮説(Porter Hypothesis)

対照的に、Porter & van der Linde (1995) はまったく逆の立場を取りました。
それが有名な ポーター仮説(Porter Hypothesis) です。

 ポーター仮説の要旨

「適切に設計された環境規制は、企業のイノベーションを促し、
結果的に生産性と競争力を高める。」

つまり、規制は単なるコストではなく技術革新の触媒(catalyst)になり得るという考え方です。

 代表的研究

  • Ambec & Barla (2006):環境規制が生産効率を改善し、長期的には利益率を高める。

  • Porter & van der Linde (1995):米国製造業で環境対応企業ほど競争力が高まった。

  • Lanoie et al. (2011):OECDデータで、環境投資と企業価値の正の相関を確認。

この理論に基づけば、K-ETSのような市場メカニズム型の規制は「柔軟性を持つ」ため、むしろイノベーションを誘発しやすいと考えられます。

2.3 排出取引制度(ETS)に関する既存研究

過去10年でETSに関する実証研究が増加しましたが、結果は一様ではありません。

研究 対象地域 主な結果
EU ETS(Abrell et al., 2011) 欧州 規制下企業は非規制企業よりCO₂削減率が高いが、短期利益は減少
China ETS(Cui et al., 2020) 中国 ETS参加企業は株式市場でプラス評価を受けた
Japan Voluntary ETS(Hara et al., 2019) 日本 自主的制度でも企業価値向上効果が見られた
Korea ETS(Kang & Kim, 2018) 韓国(初期) 効果は限定的、制度成熟度の影響が大きい

これらの知見を踏まえると、制度の設計の成熟度・市場の信頼性・透明性
企業評価への影響を左右することがわかります。


2.4 韓国市場における特殊性

著者は特に、韓国市場の以下の3点に注目しています。

  1. 製造業依存度の高さ
     → エネルギー多消費産業が多く、ETSコストの影響を受けやすい。

  2. 企業グループ(Chaebol)構造
     → 財閥系列企業が多く、内部取引や系列調整を通じて排出枠管理が可能。

  3. 資本市場の発達段階
     → 環境要因が投資判断に織り込まれる程度が欧米より低い。

このため、K-ETSが企業価値に与える効果は、制度設計・業種・所有構造によって異なる可能性があります。


2.5 研究の仮説(Hypotheses)

著者はこれらの議論を踏まえて、次の2つの主要仮説を提示しています。

仮説1

K-ETSへの参加は、企業価値に正の影響を与える。
(環境規制がイノベーションを促し、市場評価を高める)

仮説2

K-ETSの企業価値効果は、環境負荷の高い産業(環境敏感セクター)でより顕著である。
(排出削減プレッシャーが強い企業ほど、イノベーション誘発効果が大きい)

また副次的に、持株会社系列(Chaebol系企業)の構造的影響も分析対象としています。
グループ内調整を通じた排出権取引や効率化が可能であるため、これも企業価値に影響を及ぼす可能性があります。


第2章まとめ(ポイント整理)

観点 内容
理論的対立 規制=コスト負担説 vs ポーター仮説(規制=イノベーション誘発)
既存研究 EU・中国ではプラス、日本は限定的、韓国は初期段階で不明確
仮説設定 H1:K-ETSは企業価値を高める/H2:効果は環境敏感産業で強い
焦点 韓国特有の産業構造・財閥構造・制度成熟度が鍵

3. 方法論とデータ ― K-ETSの企業価値効果をどう検証したのか

 分析の目的

本研究の目的は、K-ETS(韓国排出量取引制度)の導入が企業価値にどのような影響を与えたのかを、因果的に特定(Causal Identification)することです。
単なる相関ではなく、「ETSに参加したから企業価値が上がった/下がった」と言えるかを検証するため、著者は差分の差分法(Difference-in-Differences, DiD)を採用しています。


3.1 差分の差分法(DiD)の基本構造

差分の差分法とは、政策導入の前後で変化した部分だけを比較し、他の影響を除外する統計手法です。

ここで著者は「K-ETSに参加した企業」と「参加していない企業」を比較対象に設定しています。

 モデル式の概要

$$
Y_{it} = \alpha + \beta \bigl(\mathrm{Treatment}_i \times \mathrm{Post}_t\bigr)
+ \gamma X_{it} + \mu_i + \lambda_t + \varepsilon_{it}
$$

記号 意味
\( Y_{it} \) 企業 \( i \) の時点 \( t \) における企業価値(Tobin’s Q)
\( \mathrm{Treatment}_i \) ETS参加企業ダミー(1=参加企業)
\( \mathrm{Post}_t \) ETS導入後ダミー(1=2015年以降)
\( \mathrm{Treatment}_i \times \mathrm{Post}_t \) 政策効果を捉える交互項(DiDの中心)
\( X_{it} \) 企業特性(財務指標などの統制変数)
\( \mu_i;\ \lambda_t \) 企業固定効果・時点固定効果
\( \beta \) K-ETSの企業価値への純粋な影響

つまり、\( \beta > 0 \) であれば「K-ETSは企業価値を高めた」と判断できます。

 


3.2 プロペンシティスコアマッチング(PSM)

差分の差分法を使う際の注意点は、「政策を受けた企業」と「受けなかった企業」がもともと似ている必要がある、という点です。
もしETS企業がもともと大企業ばかりだった場合、その差が結果を歪めるおそれがあります。

そこで著者は、プロペンシティスコアマッチング(Propensity Score Matching, PSM)を組み合わせて、
比較対象をできる限り似た企業同士でマッチングしました。

 マッチング変数(類似度の基準)

  • 売上高(Sales)

  • 総資産(Total Assets)

  • 負債比率(Leverage)

  • 収益性(ROA)

  • 業種(Industry Classification)

これにより、「ETS参加企業」と「非参加企業」が制度導入前に同等の条件を持っていたとみなすことができます。


3.3 サンプル設計とデータ構成

対象期間とデータソース

項目 内容
対象期間 2011年〜2021年(K-ETS導入前後をカバー)
ETS施行年 2015年(Phase I開始)
データソース 財務データ:FNguide / 排出データ:CDP(Carbon Disclosure Project)
企業数 約600社(環境関連セクターを中心)
分析単位 企業×年のパネルデータ(Panel Data)構造

3.4 変数の定義

変数名 内容 測定方法
Dependent variable(従属変数) Tobin’s Q(企業価値) =(企業の市場価値) ÷ (帳簿価値)
Treatment variable(処置変数) ETSダミー ETS参加企業なら1、それ以外は0
Control variables(統制変数) Firm size, Leverage, ROA, Industry dummy など 財務健全性・業種差をコントロール

3.5 サブサンプル分析

著者は単純な全体比較に加えて、以下のサブサンプルを設けています:

分類 分析目的
環境敏感セクター vs 非敏感セクター 炭素排出の影響度による差を検証
持株会社系列(Chaebol) vs 非系列 企業グループ内調整の影響を評価
初期Phase(2015–2017) vs 後期Phase(2018–2021) 制度の成熟度による効果の違いを確認

これにより、単に「ETS効果があるか」だけでなく、
「どんな条件下で強く働くか」まで掘り下げています。


3.6 分析上のロバストネス確認

著者は推定結果の信頼性を担保するため、以下のロバストネス検証を実施しています。

テスト内容 目的
Parallel Trend Test 導入前に両グループのトレンドが同じであることを確認
Placebo Test 導入年を偽装(例:2013年)して効果が出ないか確認
Alternative Measure Test Tobin’s Qの代わりにROA, PERなどでも効果を確認
Clustered SE 標準誤差を企業レベルでクラスター化して誤差分散を調整

結果として、すべての検証で主効果(K-ETSの企業価値向上効果)は頑健に維持されました。


 第3章まとめ

観点 内容
分析手法 差分の差分法(DiD)+PSMによる因果推定
従属変数 Tobin’s Q(企業価値)
データ期間 2011–2021(K-ETS導入前後をカバー)
主要効果 ETS参加企業の企業価値上昇(β > 0)
頑健性検証 並行トレンド・プラセボ・指標代替で確認済み
追加分析 業種別・系列別・フェーズ別の効果も分析

4. 実証結果 ― K-ETSは企業価値を高めたのか?

 4.1 主な回帰結果(ベースライン分析)

著者はまず、全サンプル(2011〜2021)を対象に基本モデルを推定しました。
結果、K-ETSに参加した企業の「Tobin’s Q(企業価値)」は、有意に上昇していることが示されました。

変数 係数(β) t値 結果の解釈
Treatment × Post(ETS導入効果) +0.072 2.85 統計的に有意(5%水準)
Firm size(企業規模) + 有意 規模が大きいほど企業価値高い傾向
Leverage(負債比率) 有意 負債が大きいと価値低下傾向
ROA(収益性) + 有意 高収益企業は高い企業価値を示す
結論:K-ETSの導入は、平均して約7.2%の企業価値上昇効果をもたらした。

つまり、市場は「環境規制=コスト増」ではなく、長期的価値向上要因として評価していることが分かります。


 4.2 セクター別分析 ― 環境に敏感な産業ほどプラス効果が強い

次に、産業別に効果を分けた分析が行われました。

セクター区分 β係数 解釈
環境敏感セクター(Energy, Steel, Chemicalsなど) +0.098 有意な正効果(10%近い企業価値上昇)
非敏感セクター(IT, Servicesなど) +0.031 効果は限定的(統計的有意でない)
 つまり、排出規制の影響を強く受ける業界ほど、市場がETS対応をポジティブに評価している。

著者はこれを「ポーター仮説(Porter Hypothesis)」の支持的証拠としています。
環境規制が短期的コストではなく、イノベーションと効率改善を促す刺激要因として働いたということです。


 4.3 企業グループ別分析 ― 持株会社(Chaebol)系列の違い

K-ETSの効果は、企業グループの構造によっても異なりました。

グループ区分 β係数 傾向
Chaebol系列企業(財閥グループ傘下) +0.081 強いプラス効果、有意
非系列企業 +0.045 効果は弱め(部分的有意)

財閥グループ企業は資本力・技術投資余力が大きく、ETS対応を迅速に実行できたため、株式市場で高く評価されたと解釈されています。


 4.4 フェーズ別効果 ― 制度の成熟とともに効果拡大

韓国のK-ETSは、以下の3段階(Phase)で実施されています。

Phase 期間 特徴
Phase I 2015–2017 初期導入期、無料割当中心
Phase II 2018–2020 取引量増加、制度安定化
Phase III 2021以降 市場成熟、炭素価格上昇期

分析では、フェーズが進むにつれてK-ETS効果が強化されていることが確認されました。

フェーズ β係数 傾向
Phase I +0.045 有意だが小さい
Phase II +0.083 効果拡大
Phase III +0.112 最大効果(10%超の企業価値向上)

 制度が成熟し、炭素価格(Carbon Price)が市場に反映されるようになるにつれて、
企業の「環境対応力」が投資家から明確に評価されるようになったのです。


 4.5 ロバストネス検証(信頼性テスト)

著者は結果の信頼性を確かめるため、複数の検証を行っています。

テスト 内容 結果
Parallel Trend Test ETS導入前後のトレンドが同一か確認  並行トレンド成立
Placebo Test 偽の導入年(2013年)を設定  効果なし(期待通り)
Alternative Outcome Test Tobin’s Qの代替としてROA・PERを使用  同様の正効果確認
Heterogeneity Test 小型株 vs 大型株  小型株で効果がより強い
Clustered SE 誤差の相関補正  結果は頑健に維持

これらの確認により、K-ETSの正の企業価値効果は統計的にも実証的にも堅牢であることが示されました。


 4.6 理論的解釈 ― なぜ価値が上がるのか?

著者は、K-ETSによる企業価値上昇のメカニズムを3つに整理しています。

メカニズム 内容
(1) イノベーション効果(Porter Hypothesis) 規制が技術革新を促し、生産効率・収益性を向上させる。
(2) 投資家評価効果(Reputation Effect) 環境対応企業がESG投資家から高評価を受ける。
(3) リスク低減効果(Risk Mitigation) 将来の環境罰金・規制リスクを回避することで割引率が低下し、企業価値が上昇。

この3要因が重なり、結果として「環境規制の導入が市場価値を押し上げる」という結果に結びついたと結論づけています。


 第4章まとめ(ポイント整理)

観点 内容
主効果 ETS参加企業のTobin’s Qが平均7%上昇
業種別効果 環境敏感産業で最大(+9〜10%)
グループ効果 財閥系列企業で特に強い
制度進展効果 フェーズが進むほど効果拡大
理論的背景 Porter仮説を支持(環境規制=イノベーション促進)
ロバストネス 全テストで正効果を確認(頑健)

5. 考察と結論 ― K-ETSが示した「環境規制=成長ドライバー」

 5.1 総括 ― データが示す明確な結果

本研究の最も重要な発見は、K-ETS(韓国排出量取引制度)が企業価値を押し上げたという点です。
市場は、排出規制を単なるコストではなく、企業の成長可能性や技術革新力の象徴として評価していました。

研究結果をまとめると,

分析視点 結果
平均効果 K-ETS導入企業のTobin’s Q +7.2%(有意)
業種別効果 環境負荷産業で最大効果(+9〜10%)
グループ別効果 財閥系列企業で特に顕著
制度フェーズ別 フェーズ進展で効果増加(Phase IIIで最大)
信頼性検証 すべての頑健性テストを通過

これらの結果は、単一の国・時期に限定されたものではなく、
制度が成熟するほど市場の評価が高まるという動態的な側面も示しました。


 5.2 理論的含意 ― 「ポーター仮説」の再検証

本研究は、古典的な「ポーター仮説(Porter Hypothesis)」を実証的に支持しました。

ポーター仮説
「適切に設計された環境規制は、企業にイノベーションを促し、長期的な競争力と生産性を高める」

K-ETSの導入は、企業に以下の3つの変化をもたらしたと考えられます。

メカニズム 説明
① 技術革新の誘発(Innovation Inducement) 炭素削減目標の達成のため、生産効率や再エネ技術への投資が増加。
② コスト構造の最適化(Efficiency Improvement) エネルギーコストの見直し・設備更新が進み、長期的に利益率改善。
③ 評価の再構築(Investor Revaluation) ESG・サステナビリティ重視の投資家からの再評価が進行。

特に、市場メカニズムを通じた規制(Market-Based Regulation)であるETSは、
「罰ではなく誘導(incentive-based)」として機能した点が大きな特徴です。


 5.3 政策的含意 ― 「環境政策=資本市場政策」

この研究は、環境政策が単に排出削減を目的とするものではなく、
資本市場の評価構造そのものを変える可能性があることを示唆しています。

韓国のK-ETSは、アジア初の国家レベル排出市場として、
政府・企業・投資家の三者関係を次のように再定義しました。

ステークホルダー K-ETSがもたらした変化
政府 炭素市場を通じた効率的な排出管理(直接規制から市場誘導へ)
企業 環境コストを内部化し、イノベーションで対応
投資家 ESGスコア・環境情報を企業価値評価に反映

結果として、「環境対応が資本コストを下げる」という構造変化が生まれました。
これにより、環境対応が“社会的義務”から“経済的合理性”へと変化しています。


 5.4 先行研究との整合性と貢献

本論文は、以下の先行研究との整合性を保ちながら、独自の貢献を持ちます。

比較対象 内容 本研究との関係
Porter & van der Linde (1995) 環境規制は競争力向上を促す K-ETSにおいて実証的に支持
Ambec & Barla (2006) 規制効果は産業特性に依存 環境敏感産業ほど効果大で整合
Korea Environment Institute (2019) K-ETS初期段階で効果限定的 本研究ではPhase IIIで明確な効果確認
Lee et al. (2023) ESG要素と企業価値の関係 ETSによるESG的評価強化を確認

特に重要なのは、本研究が制度成熟後(Phase II〜III)を含む長期データを使用している点です。
そのため、単なる「短期イベント効果」ではなく、構造的な評価変化(structural value shift)をとらえています。


 5.5 限界と今後の研究課題

著者は最後に、以下の点を今後の課題として指摘しています。

観点 内容
(1) 国際比較の必要性 韓国以外(日本、中国、EU)のETSでも同様の企業価値効果が見られるか検証が必要。
(2) 炭素価格の影響分解 排出枠価格(Carbon Price)と技術投資のどちらが主因かを識別する必要。
(3) ESGスコアとの連動性 K-ETS適合度がESG格付け・投資流入にどう影響するかを定量分析。
(4) 非上場企業への波及 資本市場にアクセスしない企業への間接的効果の把握。

これらは、「環境政策×企業財務×投資家行動」を結ぶ新しい学術分野を切り開くテーマです。


 5.6 結論 ― 環境対応=企業価値の新しい通貨

本研究のメッセージは明確です。

「環境対応はコストではなく、企業価値の新しい通貨である。」

K-ETSの導入は、企業に排出削減のプレッシャーを与える一方で、
その対応力・技術力・透明性を可視化し、市場がそれを高く評価する仕組みをつくりました。

著者は次のように結論づけています.

The K-ETS provides evidence that environmental regulation, when designed as a market mechanism,
enhances firm value by promoting innovation and improving investor perception.
(K-ETSは、市場メカニズムとして設計された環境規制が、
イノベーションを促し、投資家の評価を高めることで企業価値を向上させることを示している。)


✏️ 第5章まとめ

観点 内容
主結論 K-ETSは企業価値を有意に押し上げた(平均+7%)
理論的意義 ポーター仮説を実証的に支持
政策的示唆 環境政策は同時に資本市場政策でもある
貢献点 長期データ・フェーズ別効果を通じた制度成熟の分析
今後の課題 国際比較・炭素価格要因分解・ESG連動効果
メッセージ 環境対応は「コスト」ではなく「競争優位の新通貨」

この研究は、「環境規制=企業負担」という古い発想を覆し、
「環境適応=市場での評価上昇という新たな視点を確立した重要な実証論文です。


まとめ ― 「脱炭素はコスト」ではなく「価値創造のドライバー」

K-ETSの導入は、企業に新たなコストを課すどころか、
「環境対応=企業価値向上」という新しい経済パラダイムを韓国市場で実証しました。

環境規制は、もはや罰ではなく、競争戦略である。

用語解説

■ 排出量取引制度(Emission Trading Scheme:ETS)

温室効果ガス排出量に上限(キャップ)を設定し、企業がその範囲内で排出枠を売買できる仕組み。市場メカニズムによって効率的な排出削減を促す政策手法。

■ K-ETS(Korean Emissions Trading Scheme:韓国排出量取引制度)

韓国政府が2015年に導入したアジア初の国家レベルの排出取引市場。対象は発電・製造業など約700社。制度は Phase I(2015–17)→Phase II(2018–20)→Phase III(2021–25)と段階的に拡大。

■ ポーター仮説(Porter Hypothesis)

マイケル・ポーター(1995)が提唱。「適切に設計された環境規制は、企業に技術革新を促し、長期的な競争力と生産性を高める」という理論。K-ETS研究の理論的枠組みとして採用。

■ 差分の差分法(Difference-in-Differences:DiD)

  政策導入前後の変化を「処置群(ETS対象企業)」と「対照群(非対象企業)」で比較する因果推定手法。政策効果を統計的に識別するために用いられる。

■ プロペンシティスコアマッチング(Propensity Score Matching:PSM)

 企業がETSに参加する確率を推定し、似た特徴の非参加企業とマッチングさせる統計的補正法。DiD分析の前処理として使用。

■ トービンのQ(Tobin’s Q)

企業の市場価値を評価する指標。株式の時価総額+負債を資産の再取得コストで割った値。1を超えると「市場が企業の将来価値を高く評価している」とされる。

■ 環境感応産業(Environmentally Sensitive Industries)

炭素排出量が多く、環境規制の影響を受けやすい産業(例:鉄鋼、化学、セメント、エネルギーなど)。K-ETS効果が特に大きかった業種。

■ 炭素価格(Carbon Price)

1トンのCO₂排出に対して市場で取引される価格。ETS市場で排出枠の需給によって決まる。企業の排出コストや利益構造に直接影響する。

■ 排出枠(Emission Allowance)

各企業に割り当てられる排出可能なCO₂量。余った枠は市場で売却でき、不足分は購入が必要。企業間の「排出の最適分配」を促す。

■ 環境イノベーション(Environmental Innovation)

環境規制対応のための新技術開発や工程改善。K-ETSによって促される主要な変化要因の一つ。

■ 環境規制の段階(Phase I / II / III)

K-ETSの制度拡張ステージ。Phase Iでは企業慣熟、Phase IIで制度安定、Phase IIIで対象拡大と厳格化。進行とともに効果が増大。

■ ESG投資(Environmental, Social, and Governance Investment)

環境・社会・ガバナンスの観点を重視する投資。K-ETS参加企業はESGスコア上昇により、資本コスト低下・株価上昇が起こる傾向。

■ 投資家再評価効果(Investor Revaluation Effect)

ETS導入後、企業の環境対応力を理由に市場が再評価し、株価が上昇する現象。K-ETS研究で最も顕著なメカニズムの一つ。

■ 環境パフォーマンス指標(Environmental Performance Indicators:EPI)

排出削減量や省エネ効率など、企業の環境対応を数値化する指標群。投資家や格付機関が評価に利用。

■ 内生性問題(Endogeneity Problem)

変数間の因果関係が双方向に存在する可能性。ETS効果が「原因」か「結果」かを誤認しないため、DiDやPSMで統計的に制御する。

■ 頑健性検証(Robustness Check)

分析方法を変えても結果が一貫して再現されるかを確認する手続き。研究の信頼性を高めるために不可欠。

■ 環境規制ショック(Environmental Regulation Shock)

新たな規制導入による企業行動の変化。DiDではこのショックを自然実験として扱う。


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